Career
三ヶ田 明弘 (みかた あきひろ)
1959年11月03日
東京都 beborn-Aomorishi Chuo4
stature 180cm
weight 95kg
Blood Mold B







国家公務員退職後
1984年
フルコンタクトカラテチャンピオン
北城 力選手、私本人と
アーノルドシュワルッェネッガー氏
ホテルオークラ、プレデター
journalist interviewにて。

16日の新日本、後楽園大会を
観戦に来ていた三ヶ田さんの
ことをジョージは、
「力も強いしこいつはヤルよ!」
1989年平成1年3月24日
師匠ジョージ高野氏よりポラロイド写真を寄贈。
千代田スタジオにて










WEEKLY FOCUS
今ひとりの若者が、夢を現実のものにするため、カルガリーヘ渡る!!
7月7日(金)、ひとりの若者がプロレスラーになるため、カナダへ渡ることになった。名前は三ヶ田(みかた)明弘さん。昭和34年11月3日生まれの26歳。青森県青森市出身である。青森出身のレスラーといえば、現役では船木しかいない。「昭和史」で調べても、船木しかいないので、もし彼がデビューすれば、青森から生まれた2人目のレスラーということになる。高校を卒業後、故郷でサラリーマンをしていた三ヶ田さんは、レスラーを志し数年後に上京。都内新宿区でアルバイトをしていた時、バイト先の社長がたまたま知っていたレスラーを紹介してくれることになった。それが、偶然にも憧れていたジョージ高野だった。今から1年半前のことである。三ヶ田さんは以来、ジョージと俊二の高野兄弟に励まされ続け、共に都内練馬区のスポーツクラブ〝ドルフィン〟に通ってウエート・トレーニング。体もどんどん大きくなり、体重は90キロにまでなった。もちろん日本マットでやっていければ、それにこしたことはないのだが、三ヶ田さんはあえて修行の場を海外に選び、日本の団体に所属しないフリーの選手として、カルガリーのマットを踏む。受け入れてくれるのはダイナマイト・キッド。もちろんすぐにはデビューできないが、キッドの自宅に住み、キッドにマンツーマンでレスリングのコーチを受け、来年早々にもデビューする予定だ。キッドを紹介したのは高野俊二で6月上旬、三ヶ田さんと会ったキッドは「この男を半年間みっちり鍛え上げ、7カ月後には必ずデビューさせてみせる」と俊二らに約束した。「目標はジョージさん。中学のころから憧れていたジョージさんのようになりたい」と言う三ヶ田さん。スピードとカッツにあふれた選手が、目標だ。果たしてダイナマイト・キッドとジョージ高野を足して2で割ったような選手が誕生するか。半年後の三ヶ田さんの〝夢★実現〟を応援しよう。(週刊プロレス専属記者 安西伸一氏)
1985年
IVS.TV赤木様のとんねるずの紅白をぶっとばせウガンダ氏、マイケル
富岡氏、笑副亭笑瓶氏とPerformance。プロレスラージョージ高野氏、
高野俊二氏トレーニングをcommencement。
1986年
古舘伊知郎氏の世にも不思議な逆回転IFBBボディビル選手とcommencement。
1987年
ドッキリカメラへPerformance。
1987年
スポーツジムにてスクワットの記録480kgベンチプレス210kgで1位。
1988年
みのもんた氏のドッキリウオッチングにPerformance。
1989年
8/4プロレスラーになるため修行の場を海外へ、カナダ・カルガリープロレスラーミスターヒトこと安達勝治氏にもinitiationを受ける。安達勝治氏のintroductionによりカルガリーのGOLDS GYM. を無料で使用。数日後、同スポーツジムにて2度目になるがSHOGUN KY WAKAMATU(将軍 KY ワカマツ氏)にappointされる。カルガリーのGORDS GYM. にてクリスべノア選手と奇遇にも練習時間が一緒で、その時が初めての出会いでもあり、非常に無口で真面目な選手であるという印象が今でも脳裏を過ぎる・・・・・・。


カナダキャルガリープロレスラーミスターヒトこと、安達勝治氏の本人自身の知名度のお陰で、私三ヶ田明弘は左記写真MEMBERSHIP CARDを無料で作って頂く事になり、
ウエイトトレーニングに関しても、濃密な諸外国でのメニューをこなす事が出来た。
世界には脅威と思うべく人達が、沢山男女問わず、共有の時間がそこにあった。
安達様御家族一同に対しても非常に関心と感謝をしている。安達様のご友人である、
なんばさん御家族にもお世話になった事も生涯忘れられない。
時間の共有という価値観はどのようにそれをとらえて自分のまたは、人の為にそれを、伝える事が出来るのかということを、よく考えること。考えてみること。
・・・考慮(こうりょ)deliberation(デリバレイション)したいと思う。
byプロレスラー三ヶ田明弘
1万m走はタイムは計らず、トレーニングのような感じで行われた。最後は、中央(黒のランニング)の三ヶ田トレーナーの号令で、ダッシュ!
三ヶ田明弘談
マスコミからは上記のコメントを頂いておりますが、この時の1万メートル走は想像以上に過酷なものであり、私は当時コーチ/トレーナという職務上これから選手になるであろう練習生に対して、最後の100メートル走においても負けたらクビだと言われていた為、もちろん順位は1位。そして身体は壊れ入団結果発表の記者会見の時は病院へ直行。それほど内容の濃い種目だという事です。練習生は、陸上競技の過酷さを身体で身にしみるほど味わったと思う。イコールコーチという職業は、大変な立場であるという事である。ある意味選手よりも・・・・・・。
スーパーワールドスポーツSWS
1990年
メガネスーパーワールドスポーツSWSにて
インストラクターを勤める。(hold a post)
株式会社 集英社 週刊「プレイボーイ」
特派記者(島村誠也氏)
1990年
平成2年9月4日発行 集英社 WEEKLYプレイボーイ夏の鍛錬特集ミスター・ミカタのビルドアップ術90マッスル北村氏、アニマル浜口氏と歴代3人目の私。将軍KYワカマツ氏、ジョージ高野氏は私にアドバイスやトレーニングに献身に接してくれ堅忍不抜、他の事でもPossessがある事にとても関心いたしました。
イス攻撃を邪魔した三ヶ田トレーナーを谷津が試合後に鉄拳制裁。







































新横浜SWS仮道場にて




















